FLATLINE一周年をむかえて
Jul 01, 25 青野ゆらぎみなさんこんにちは。FLATLINEを管理している青野です。
おかげさまでこのサイトは一周年をむかえました。短歌を投稿してくださる人がふえてうれしいかぎりです。
今後ともよろしくお願いします。
わたしはアンドレイ・タルコフスキーの映画が好きです。
彼の代表作に、「鏡」という半自伝的な映画があります。
この作品でもっともうつくしいシーンのひとつは、医者を自称する見知らぬ男が若かりしころの主人公の母のもとから去っていくときに、奥から吹いてきた風が草原をゆらすところでしょう。
(10:40~)
これについて、タルコフスキー自身は以下のように述べました。
彼が去っていくときに、彼がたんにヒロインの方を振り返って、意味ありげに見たとするならば、そのときすべては一本調子で偽りに満ちたものになったに違いない。そのとき、この草原を風が突然吹きわたるということが頭に浮かんだのだ。この思いがけぬ風のために、この見知らぬ男は心を奪われ、風ゆえにあたりを見回したのである。もしこのように言うことが許されるならば、このような場合、作者の〈手をつかんで〉、その意志の明確な方向を示させることなどできないのだ。
アンドレイ・タルコフスキー「映像のポエジア」鴻英良訳,ちくま文庫,pp.182-183.
映画においては、彼が言うように、必然性のないできごとが、そこにある物語や人間関係、さらには世界のすべてを反映しているかのように機能することがあります。
それはすなわち「この表現はこれを意味する」「この作品のテーマはこうだ」という単純な対応をこえて、個人的でユニークなできごとが、普遍であるかのようにふるまう瞬間です。
彼の映画では、こういったシーンは数えきれません。
なにかを表現しようとする人は、かならずその瞬間を見つけ出すべきなのだと思います。
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旅行は、ある土地での個人的な経験が記憶としてその後の生活全体に影響をあたえるという意味で、タルコフスキーの「思いがけぬ風」と似ているかもしれません。 わたしにも、旅先の体験でいくつか思いだせるものがあります。
台北で、八角の香りをただよわせる茶葉蛋を食べながら淡水河に沈む夕日をながめていたこと。
ギリシャの田舎町の時間が止まったような土産物屋で、店員にクッキーをもらったこと。
はたまたポートランドで、路上詩人がタイプライターで打ち出した即興詩を買ったこと。
ニューヨークのガラクタ屋で、誰が描いたのかもわからない絵がいくつも通路に立てかけられて売られていたこと。
こうした場面は、物語のようによくできてはいなくても、ときどき思いだします。
映画も旅も、本質的にはノスタルジックなものなのでしょう。
それではさようなら。